【坐禅作法35】運命は変えられるのか?
ちょっとはマシな坐禅作法 運命は変えられるのか?〜心随観のヒント 4〜
〜心随観のヒント 4〜
どこか変だよ、カルマ論
カルマ論には諸説あって千差万別。曖昧模糊とした印象を受ける。
たとえばカルマを“避けられない罪と罰”と説明することがある。
この理論によると前世で犯した罪の贖(あがな)いとして今世で罰を受ける。
ならば前世の罪に今世の罪も重なるとすれば何時まで罰は続くのか?
来世になってもどうせ救われないという絶望に傾きかねない理論。
また“避けられない運命”と説明されることもある。
この理論では運命は予め決まっていて甘んじて受け入れなければならない。
しかし待ち受けているものが不幸な運命なら受け入れたくないものである。
この理論の問題点は、とかく人生の出来事はままならぬものなので、
「運命は予め決まっている」と説明されると容易に納得しかねないことにある。
ボクの実家は死後に西方極楽浄土に生まれ変わることを願う浄土真宗だけれど、
不幸な運命を抱えながらやり過ごすための念仏なんてちっともありがたくはない。
たとえ前世で犯した罪の贖罪だとしても犯した罪もわからないのはフェアじゃない。
そんなわけで宗教は救いをもたらすどころか不安ばかりをボクにもたらした。
だから禅に限らず宗教の教義から本気で救いを引き出そうとするなら、
まずはこれらカルマ論の呪縛を解く難問に挑まなければならないはずだ。
すなわち運命は変えられるのか否か?
ボクにこの難問を解くきっかけをくれた本が『あるヨギの自叙伝』である。
『あるヨギの自叙伝』
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インドのヨガ行者の修行記。
悟境の深まりにつれてエピソードに込められた真意が立ちのぼる。
そのとき物語は警句となり教訓となって迫ってくる。
聖者独特のぶっ飛んだユーモアも楽しい。
よく書き残してくれたと思う。
聖典『バガヴァッド・ギーター』入門書としても最適。
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星まわりに支配される人間の運命について書かれた章に心を奪われた。
星学は、星の刺激に対する人間の反応を研究する科学だ。
星には意識的な善意や悪意があるわけではない。
星はただ、陽性または陰性の放射線を放っているにすぎない。
これらの放射線は、それ自体としては人間を助けたり害したりするものではないが、
各人が過去においてまいた行為の種子(因)に、
因果の法則による発芽の機会(縁) を与えるのだ。
(パラマハンサ・ヨガナンダ『あるヨギの自叙伝』-P.170「第十六章 運星をかわす」)
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ボクの聞きかじっていた浄土真宗では占星術のたぐいは完全否定だけれど、
この本の著者ヨガナンダの師にあたるスリ・ユクテスワは星学は科学だと言う。
また、その頃すでに星まわりについては思うところがあった。
「松本清張はじめ大成する作家は42歳頃からデビューまたは人気になる」
「浅田次郎の『蒼穹の昴』だって42歳からの作品だ。ボクの人生もこれからだ」
パッとしない30代を迎えていたボクはそんなことで自分を慰めていた。
またボクの叔父は42歳で交通事故に遭って離婚。一家はバラバラになった。
20年位経った今も生きてはいるけれど自力では生活できない状態にある。
ことの顛末の発端を考えるとやはり42歳の交通事故にあった。
そういう観点で世の中を見てみると、一般に厄年といわれる42歳は、
転落してゆく人と飛躍する人を分ける転換点のように思えてならなかった。
このユクテスワの星学の解説はそこに裏づけを与えるものだったのである。
天体からの放射線は因果の種子(カルマ)を発芽させるきっかけになる。
多くの人の42歳に運命の転換点があるということは、つまり、こういうことだ。
「この天体からの放射線は誰にも等しく影響を与える」
ただし、因果の種子とも説明されるカルマが予め定まっているとしたら、
転落してゆく人と飛躍する人の運命は変えられないことになる。
この問題に対するユクテスワの解答はこういうものだった。
子供は、この天からの放射線と、本人の個人的カルマとが数学的に合致したその日、
その時刻に生まれる。彼の天宮図は、彼のもはや塗り変えることのできない過去と、
それから生ずるであろう未来を予想して見せる、いわば運命の挑戦的肖像画だ。
しかし、この誕生時の天宮図を真に正しく解釈できるのは、
直観的英知の開けたごくわずかな人に限られている。
(パラマハンサ・ヨガナンダ『あるヨギの自叙伝』-P.170「第十六章 運星をかわす」)
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ボクはここにあらたなカルマ論を発見した。「カルマとは運命の挑戦」。
誕生の瞬間に大空いっぱいに描かれるこの託宣は、
決してその人の運命 (過去の所業が原因となってもたらす結果)を強調するためではなく、
むしろ、その束縛から抜け出そうとする人間の意志を喚起するためのものなのだ。
自分でした事は、自分で元どおりに直すことができる。
現在自分の身のまわりに起こっているいろいろな出来事は、
すべて自分自身が過去においてまいた原因から生じたものだ。
どんな障害でも克服できないものはない。
なぜなら、その障害はそもそも自分自身の行為がつくり出したものであり、
しかも人間は、星の力などには影響されない霊的資産を持っているからだ。
(パラマハンサ・ヨガナンダ『あるヨギの自叙伝』-P.170「第十六章 運星をかわす」)
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この一節を読んだとき人生に対する不安の原因を知った。
ボクはカルマ論を教条的に解釈して迷信じみたものを怖れていたにすぎない。
伝統的教義を表面的になぞるばかりで真意を見失った葬式仏教徒だったのだ。
因習と化した伝統はもはや当初の真意を伝えているものではない。
ボクに不安しかもたらさなかった昔からの習わしなんてものはクソ喰らえである。
伝統的教義にすかしっ屁を喰らわし過去の因縁に打ち勝つ決意を固めた。
その数ヵ月後の興菩提心体験からボクの人生はようやく価値を取り戻す。
星学というものをただ迷信的に恐れ信ずる者は、
運星の奴隷としてその機械的な法則に巻き込まれてしまうことになる。
賢者は、その信仰の拠りどころを被造物から創造主に転換することによって、
自分の星すなわち過去の因縁に打ち勝つのだ。
(パラマハンサ・ヨガナンダ『あるヨギの自叙伝』-P.170「第十六章 運星をかわす」)
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ボクは心に抱えている信仰の問題に気づいてから禅の正門への道が開けた。
きっと伝統に背を向けて信仰の呪縛を解くことは人生公案の初関なのだろう。
自分の本当の人生を生きはじめるにはこの初関を通らなければならない。
ほとんどの凡人は伝統信仰のために死んだも同然の人生をおくっている。
仏教に人生の救いを求めて縋(すが)りよってくるというのに死に体にされる。
そうした実態を見るにつけ葬式仏教とはいかにも皮肉な呼び名だと思うのだ。
さて、次にボクが考えたのはこういう仮説だった。
42歳に人生の転落と飛躍を分ける運命の転換点があるのなら、
それ以前のどこかに運命を変える転換点もあるはずである。
それはどこか?
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男は29歳になると走り出す
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まず当時33歳になろうとしていたボクの脳裏を過(よ)ぎったのは、
システムエンジニア時代に読んでいたビジネス雑誌のコラムだった。
「男は29歳になると走り出す」
たしか筆者は石原慎太郎だったと記憶しているのだけれど、
「徹夜で遊んでも平気だったのに29歳になると体力が急に落ちてしまった。
周囲の男の多くも30歳を目前にして突然ランニングを始めた」という話である。
そしてボクもダイエットとして筋トレやランニングを始めたのは29歳からだ。
自己啓発書を読み漁って精神的な本への肩慣らしを始めたのもここ。
チベット体操と坐禅はその成りゆきとしてボクの生活に取り込まれたから、
坐禅の事始(ことはじめ)は29歳からの筋トレや読書にあったともいえる。
さらにこの29歳はお釈迦さまの出家した年齢でもあるという。
「たぶん、29歳には何かある」
そこで「29歳」「転機」と打ってインターネットを検索したらジャストミート。
ボクの運命論の論拠となる田口ランディさんの「人生二九歳変動説」にヒットした。
そうなのだ。運命を変える転換点は29歳にあったのである。
後に、このブログのコメント欄の書き込みではじめて知ったのだけれど、
この29歳と42歳にある天宮のいたずらは西洋占星術でも有名な話なのだそうだ。
これは占星術の世界でも有名な説です。
西洋占星術では、土星と天王星が半周を巡る(または一周する)時期で、
サターンリターン、ウラヌスリターンと言われている時期と重なります。
これらの時期は、人生に変動を引き起こすとされています。
○サターンリターンは29才前後
ペルソナ(仮面)の自分を剥いで、本当の自己と直面する時期
○ウラヌスリターンは42才前後
これまでの人生で成し遂げることができなかったことを達成する時期
といわれています。誰でも発生し、
ダイナミックに直面する人もいれば何事もなかったかのように過ぎ去る人もいるといいます。
誰でも内面的、環境的な「変化」に直面し、
「魂が成長する節目」といわれています。
これらの変動期にもがき苦しんだ人のほうが成長するとも言われています。
(情報提供者:Kさん「Kさん、どうもありがとう(布施仁悟)」)
したがって、たとえ凡人に生まれついたとしても悲観することはない。
逆転劇を演ずる機会は誰にも等しく与えられているからである。
凡人出身のボクはこの神仏の粋なはからいに感謝せずにはいられなかった。
ただし「これらの変動期にもがき苦しんだ人のほうが成長する」とあるように、
29歳の運命の扉に飛び込んだ凡人には急速な成長を促す試練が待ち受ける。
素質を持って生まれた秀才に追いつくための猛特訓を特別クラスで受けるのだ。
特別クラスの担任は各人の内なる師。そして因果律こそ彼の仕事道具である。
無言のまま情け容赦なくふるわれる感奮興起の鉄鞭は理不尽かつ意味不明。
その試練を完全にクリアできるまで絶対に人生が開けないこともつらい。
「もう無理だ、普通の男の子に戻りたい」ボクだって何度思ったか数知れず。
ただしコツさえつかめば業(カルマ)の解消はサクサク進んでゆく。
そのコツとは内なる師の無言の指導の意味を推理洞察する技術なのだけれど、
それは因果律すなわちカルマの法則を正しく理解することからはじまる。
そのためカルマの法則の特徴をあらかじめ知っておくといいと思う。
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カルマの法則の特徴
カルマの法則はものごとの「原因」と「結果」にまつわる法則ともいえる。
ただしこの法則をとりまく世間一般の誤解はつきない。
たとえば一般人に人生を好転させる方法を聞いてみたとしよう。
ある人は自助努力と答え、またある人は素手で行うトイレ掃除と言う。
ご先祖さまに毎日ぼた餅を供えればよいと信じているものもいれば、
どこぞの教祖さまの手かざしをアテにしている人もいる。
ただし、どの方法論もいずれ通用しなくなると決まっている。
それが凡人の場合は29歳。素質のある秀才と違って気づくのが遅いのだ。
すべてが失敗したとき、人生が教えるのだ。だが、人生の教訓は長い時を必要とする。
(『アイ・アム・ザット 私は在る』-P.491「91 快楽と幸福」)
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29歳のときにすべてが失敗したことに気づいた人に運命の扉は開かれる。
多くの29歳が運動や読書を始めるのはそれを感じ取っているからだ。
ただし、ほとんどの人は世俗的な解決策にダマされて脱落してゆくものである。
その理由はジェームズ・アレンの『AS A MAN THINKETH』に明確だ。
日本語訳のタイトルはその名もズバリ『「原因」と「結果」の法則』。
人々の多くは、環境を改善することには、とても意欲的ですが、
自分自身を改善することには、ひどく消極的です。
かれらがいつになっても環境を改善できないでいる理由が、ここにあります。
自分自身を改善するということは、
真の意味での自己犠牲を払うということにほかなりません。
真の自己犠牲とは、心の中からあらゆる悪いものを取り払い、
そこを良いものだけで満たそうとする作業です。
(ジェームズ・アレン『「原因」と「結果」の法則』-P.28「思いと環境」)
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自分を取り巻く環境の根元は自分の心の中にしかないことに気づかないため、
環境だけを変えようとする世俗的発想にしがみついて人生を転落するのだ。
よって進歩できるのは“心と環境の真理”を発見し信頼できた人のみである。
そこで仏教の原始経典・法句経は“心と環境の真理”で第一句を飾っているのだ。
ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。
(法句経1)
(中村元訳『ブッダの真理のことば・感興のことば』-P.10「第一章 ひと組みずつ」)
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運命を左右しているカルマの法則もまた心の法則だと気づいた人は幸せである。
心をコントロールしてカルマを解消する修業を続けているうちに、
いつのまにか環境をコントロールしている自分に気づくだろう。
その人はやがて運命を好転させることもできるからだ。
また神仏の支配しているカルマの法則は公正普遍の原理であることも知れば、
得体の知れない奇妙な存在だった神仏は信頼に足る存在に変わる。
しかし、もしあなたが、その至高の峰をめざしつづけたならば、
その過程で(峰にいたる、はるか以前の段階で)、
「自分の心と人生内で機能している法則は完璧に公正であり、
それが、悪に対して善で報いたり、
善に対して悪で報いたりすることは絶対にありえない」ということを知るでしょう。
(ジェームズ・アレン『「原因」と「結果」の法則』-P.33「思いと環境」)
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これは神仏との和解を意味する。そして、この和解こそ得度なのである。
興菩提心体験はそのときに起こり、内なる師との出会いは劇的に果たされる。
それをキリスト教では“洗礼(バプテスマ)”と呼び“天国の約束”と説明する。
してみれば興菩提心体験とは“悟りの約束”を意味しているに違いない。
ついでに“業(カルマ)を解消する”とはどういうことかを説明しておこう。
あらゆる状況は正しい反応を要求してくる挑戦なのだ。
反応が正しいとき、挑戦はかなえられ問題は消える。
反応を誤ったとき、挑戦はかなわず問題は未解決のまま残る。
あなたの未解決の問題が、あなたのカルマを構成しているのだ。
それらを正しく解決し、自由になりなさい。
(『アイ・アム・ザット 私は在る』-P.301「60 想像ではなく、現実を生きなさい」)
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どんな困難に出会おうともそれは決して罰ではない。むしろチャンスである。
心の中の反応を誤っただけなのだから心の中の反応を正しく組み替えればいい。
たったそれだけのことである。カルマを罪と罰と説明するのは迷信なのだ。
『アイ・アム・ザット 私は在る』
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結局このニサルガ・ヨーガに行き着いたのは驚きだ。
ニサルガダッタ・マハラジはあまりにクール。
そのため当初は冷徹な印象を受けたものである。
でも実はそれが本当の慈悲であり愛だった。
愛は神であり、神は愛である。
ゆえに愛はパラドックスである。
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葬式仏教をぶっ飛ばすための言葉の処方箋
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さあ、これで運命の制御室に入室し制御装置の前に座ったようなものである。
後は取扱説明書を読みこなし運命の挑戦と真向勝負を始めるのみ。
その説明書を読みこなすには因果律を心の目で観察するのだけれど、
三つ子の魂に刻み込まれた葬式仏教の教義が因果律をみえなくさせている。
そんなものぶっ飛ばしちまえ!
Case3 葬式仏教をぶっ飛ばすための言葉の処方箋
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自分を取り巻く環境は自分の心の反映にすぎない。
今の自分の境遇は今までの自分の責任。
(布施仁悟)
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心の豊かさや貧しさにふさわしい人生を人は歩む。
(布施仁悟)
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何事も結局、自分でオトシマエをつけることになる。
(布施仁悟)
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この心の法則・因果律は誰にも公正に働いている摂理なのだ。
誰一人として謂(いわ)れのない苦しみは受けない。
(布施仁悟)
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葬式仏教とは心の法則よりも環境の法則を探求している凡人たちの偏見。
常識とは偏見のコレクションのこと。
(アインシュタイン)
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管理すべきは状況ではなく自分の心。だから禅者は自分の心を探求しよう。
「心の中で何をしているか」それが大いに重要なこと。
(ジョン・マクドナルド)
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責任をとるわけでもないことを考えたってしょうがない。
(布施仁悟)
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それは人間関係でも同じこと。家族や友人を相手にちょっと試してみるといい。
結局のところ自分の心の問題であって相手のオツムの問題ではない。
(布施仁悟)
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誰にも期待しないとき、その周りから敵意はなくなる。
(布施仁悟)
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相手の態度が変わるのは偶然なんかじゃないんだよ。
こうして心の法則を探求し続けて因果律の観察に熟練してくると、
常識、道徳、伝統、信仰、倫理は偏見にすぎないと見破れるようになる。
もちろん葬式仏教にありがちな教条的解釈も識別できるようになるから、
それさえそぎ落とせばそこに仏教教義の本質もみえてくるわけだ。
そうして釈迦もイエスもマホメットも同じ事を言っていたと知るのである。
さて、29歳を迎えて特別クラスへの招待状の届いた凡人諸君は、
担任である内なる師と出会うための選抜試験を通り抜けなければならない。
次回は選抜試験合格者を特別ゲストとして呼んでこよう。
(2012.3)
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