そんな中根機と下根機の住んでいる世界はまったく違う。
話す言葉の質もまるで異なっている。
だから中根機による下根機に対する忠告は虚しく響くだけとなってしまう。
それと同じことは上根機と中根機が出会ったときにも起こる。
電脳山養心寺公案集 養心門 第一則 蟻と蝶(アリとチョウ)
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蟻(アリ)が身の丈よりも大きな虫の死骸を運んで花の下を通っていたとき蝶(チョウ)が飛んできてその蜜を吸った。
蝶は軽やかに飛び去り、またすぐに戻ってきて、再び蜜を吸った。
そこで蟻は蝶に苦言をていした。
「おまえは無計画に努力することなく生きているようだが、私は違う。
こうして来たるべきときのために毎日備えを怠らない。
備えあれば憂いなしだ。
何ら計画らしいもののないおまえにとって生きている価値などあるのか?」
蝶は答えた。
「わたしは気ままに楽しく暮らしているの。
それがわたしの生きる道。
計画など持たないのがわたしの計画なの。
余計なお世話よ」
その瞬間、駆けてきた人間の子供に踏まれて蟻は死んでしまった。
蝶は蟻の死骸を上から眺めながら思った。
「この蟻さんは自分の生き方に自信を持っていたようだけど、それははかないものだったのね。
でも、私がそのことを忠告しようとしたとき、彼は私のことを人の楽しみを邪魔する不愉快な奴だとしか思わなかったのよ」
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この公案の蝶は上根機だ。
たしかに下根機の蜻蛉と同じ言葉を語っていて、どちらも将来不安を抱えていないようにみえる。
けれども、そこには質的違いがあるのだ。
この蝶には女性的な受容性がある。
人生に起こることすべてを受容する用意があり、もはや蜻蛉の抱えている“過去依存”も蟻の抱えている“将来不安”もない。
すでにその両方を落としてしまっているからだ。
そうした心構えがあって、はじめて人は内からの自然な衝動にしたがって内発的に生きられるようになる。
ただ<いまここ>にわきあがる感応にしたがってあるがままを生きること―それがわたしの生きる道―となるのだ。
この公案において蝶の語っている言葉は、そんな現在を志向して生きている自然人たちの言葉にほかならない。
そういう現在志向の自然人が上根機なのである。
人生に起こることすべてを受け容れる覚悟の決まった上根機の言葉や仕草には、下根機時代の“過去依存”や中根機時代の“将来不安”の影がない。
そこには、えもいえぬ余裕がある。
もしもここに挙げた話頭の蜻蛉のように、下根機のくせに上根機の真似をしてみたところで、それが単なるポーズでしかないことは白日の下に晒(さら)されるだろう。
そんなものでは人間の底意地の悪さを隠すことはできず、それは言葉や仕草ににじみ出てしまうものだからだ。
あるとき、下根機のくせに上根機をきどっていた修行者が、こんな感じのコメントを寄せてきたことがある。
下根機のくせに上根機きどりの男
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座禅観行は外道の法…とは六祖慧能もよく言ったもんだ。
知識をいくら集めても何にもならない(他人の役には立つかもしれないが)。
それが全然理解できないのですね。
まあ今までどおりのやり方で、好きにすればいいと思いますよ。
布施さんにはもう一度、シュタイナーの(いか超)を読む事をオススメします。
(それ故もっぱら判断を下してばかりいる人は、そもそも何も学んでいない訳である)
あと俺から一言。
くれぐれも邪魔しないでね
(puffy『これが私の生きる道』より)
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中根機から上根機に至る過程では、自分の中に覚醒してきた知性を使って洞察力を磨くことになる。
その段階では、将来不安に打ち勝たなければならないため、より洗練された分別を身につけて、社会システムに対抗する<個>を確立することが課題になるのだ。
しかし、やがて<個>を確立できたとき、そこで身につけた分別を捨て去る季節がやってくる。
そのときになってはじめて人は中根機の段階を卒業して上根機に生まれ変わるのである。
下根機から中根機になり上根機へと意識の変性を遂げていく過程は、芋虫が殻をまとってサナギになり、殻を破って蝶になるようなものだろうか。
この知性を使って洞察力を磨くことを、R・シュタイナーは純粋思考体験と呼んでいた。
私の説明するところの内的体験とは、この純粋思考体験のことである。
まず純粋思考体験(内的体験)が特別重要になる
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魂の超感覚的な体験にとっては、純粋思考体験の洞察が特別重要になる。
純粋な思考はすでに魂の超感覚的な活動に属している。
ただその体験によっては、まだ超感覚的なものが見えてこない。
純粋思考がすでに超感覚的な体験であるとはいえ、思考としての超感覚的なものだけが超感覚的な仕方で体験されるだけで、他の超感覚的なものはまだ体験されない。
とはいえ本来の超感覚的体験は、このような純粋思考体験がすでに達成している魂の働きの継続であるべきなのである。
だからこそ、思考と正しく結びつくことが神秘修行にとっては特別に重要なのである。
この結びつきの意味を理解することによって得られる光は、超感覚的認識の本質への正しい洞察をも与えてくれる。
思考によってもたらされる意識の光を魂が見失うような場合、たちどころにして、超感覚的認識は邪道に陥る。
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R・シュタイナー『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』P.261-262 第八版のあとがき
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上記の下根機のくせに上根機きどりの男は、こうした純粋思考体験による意識変性の過程を理解しようともせず、密教的行法による近道を模索して、37-38歳になった頃に発狂した。
コメントの最後にある「くれぐれも邪魔しないでね」とは、まさしく『蟻と蜻蛉』の公案にある下根機の蜻蛉(とんぼ)の言葉そのものだろう。
「わたしは気ままに楽しく暮らしている。それがわたしの生きる道だ。計画など持たないのがわたしの計画なのだ。余計なお世話だ」
この37-38歳で発狂した修行者は、自分の生き方に自信を持っていたようだけれど、それははかないものでしかなかった。
しかし、そのことを忠告されたとき、彼は人の楽しみを邪魔する不愉快な奴だとしか思えなかったのである。
― 近道をしたやつは、その近道につぶされる ―
私は“9歳の運命のクロスポイント”を過ぎた頃から、下根機を抜け出すための運命の課題に挑み、“33歳のぷっつん体験”からは、中根機を抜け出すための挑戦を続けてきた。
意識レベルをひとつあげるだけでも、それなりの時間と忍耐がいるものなのだ。
なにより、己れの立ち位置を見失って、身の程知らずの増上慢になってしまったら、何も成し遂げられないことを忘れてはならないだろう。
(2016.10)
『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』
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坐禅修行のプロセスを正確に記述してある唯一の本。
(2011年1月現在・ボク調べ)
こういう本が市場に出回っている現在、
秘密にしておくことなんてもはや何もないはずである。
そろそろまともな禅書を誰かが出版しても
いいのではないだろうか?
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