その諸行無常を洞察するサイクルは40-41歳から65-66歳に至る25年間に組み込まれている。
それを私に教えてくれたのがソウルモデル井上陽水だった。
愛の階梯
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図:布施仁悟(著作権フリー)
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ここでは、そのサイクルをギリシア哲学の愛の階梯とからめて考察してみよう。
17-19歳の厄年 ― それは人生最初の勇気を試される時期である。
この時期における19になる直前の勇気が、その後の人生を左右すると言ってもいいくらいだ。
この現象は井上陽水の『結局、雨が降る』にも歌われている。
真面目なら裸になって
19になる直前
勇気を持って大人になって
そのうち 雨が降る
(井上陽水『結局、雨が降る』より)
あれは私が大学受験の浪人生で、予備校の購買で参考書を物色していたときのことだった。
高校時代のあまり親しくもなかった顔見知りが私に話しかけてきて、こう言ったのである。
「僕、大学では哲学を専攻しようとおもうんだ」
なんでも予備校の講師が雑談の中に持ち込む哲学の話が面白くて興味を持ったという。
彼があまりに嬉々として話すものだから、経済学部や商学部を志望していた私の気持ちが揺らいだ。
<<大学では哲学を専攻して普遍的な人生の糧を手に入れるべきではないのか>>。
私はそれまで視野に入れていなかった文学部に志望変更して小論文の勉強をはじめてしまった。
文学部卒が就職に不利なのは承知の上である。
― 19になる直前、勇気を持って大人になって、そのうち雨が降る ―
しかし大学の哲学の講義は私の期待していたようなものではなかった。
何しろ私の欲していたのは、ここで展開している厄年モデルや生死の円環図のような人生の地図だったのだ。
そういうことを教えてくれる教授なんか大学にいるはずがない。
私は世間知らずもいいところだったことを思い知った。
大学の講義を当てにできないならば、なんとか自分で人生の地図を描くしかない。
私は矢沢永吉の『成りあがり』を読みはじめたりして人生のロールモデルを探した。
その1993年―19歳の私に人生の雨が降りはじめたとき、井上陽水の『UNDER THE SUN』は発売された。
今おもえば予備校の購買で話しかけてきた彼は、私にとって19になる直前のハディルだったのだろう。
たぶん、あそこで文学部に志望変更しなければ、これ以降のシンクロニシティも起こらなかったとおもう。
これはアルバムの最後に収録されている『長い話』なのだけれど、井上陽水の長い話がはじまったのは、このときからだった。
話をするから聞いていて
眠ったままでも構わない
星座のあかりも消えたまま
きれいに耳だけ澄ましてね
長い長い長い長い 長い話を
朝まで君にしてあげる
(作詞:井上陽水 作曲:バナナ-U・G『長い話』より)
このとき井上陽水は45歳。
三年前の42歳のときに発表された『ハンサムボーイ』というアルバムが好調で、不滅のナンバー『少年時代』もそこに収録されていた。
井上陽水の声が突き抜けるように出ていた時期で、圧倒的な存在感があった。
ハンサムボーイ
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1990年―井上陽水42歳のアルバム
『最後のニュース』『少年時代』収録
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『ハンサムボーイ』までの井上陽水は、同世代の人たちに向けて歌を作っていた傾向があるのだけれど、このアルバムを最後に彼らはきっぱりと見かぎられることになる。
たとえば『最後のニュース』あたりが分かりやすいだろうか。
闇に沈む月の裏の顔をあばき
青い砂や石をどこへ運び去ったの
わすれられぬ人が銃で撃たれ倒れ
みんな泣いたあとで誰を忘れ去ったの
飛行船が赤く空に燃え上がって
のどかだった空はあれが最後だったの
地球上に人があふれだして
海の先の先へこぼれ落ちてしまうの
今 あなたにGood-Night
ただ あなたにGood-Bye
(井上陽水『最後のニュース』より)
「アポロ11号の月面着陸とかジョン・レノンの暗殺とか…いろいろあったけど、みんな守れそうにない約束をしてきた人のこと忘れちゃったの?あなたたちみたいなのはお寝んねしてなさい」というわけだ。
そのくせ『最後のニュース』を収録した『ハンサムボーイ』のジャケットでは、憎みきれない薄笑いを浮かべていて、なんというか、この人を食ったような朗らかさがたまらない…それが井上陽水だったのだ。
そして『ハンサムボーイ』には、何といっても『少年時代』が収録されている。
目が覚めて 夢のあと
長い影が 夜にのびて
星屑の空へ
夢はつまり 想い出のあとさき
夏が過ぎ 風あざみ
誰のあこがれにさまよう
八月は夢花火 私の心は夏模様
(作詞:井上陽水 作曲:井上陽水・平井夏美『少年時代』より)
夢はつまり想い出の後先…過去と未来の記憶にとらわれなくなったとき、個人の夢が破れて<全体>の夢の中に目覚める。
その夢破りに挑戦できるのは42歳までに形而上の学校のカリキュラムを修了した人たちだけだ。
そういう人たちが形而上の学校を卒業したあとの目標地点を示したものが『少年時代』なのである。
こういうとき、海の先の先へこぼれ落ちるように溺れゆく者たちと命運をともにしようと考えるのは、血も涙もありすぎるというものだろう。
そこで井上陽水は、同世代の人たちをみかぎり、可能性のある次世代の若者にターゲットを移していった。
そのすべてが1994年46歳でリリースされた『永遠のシュール』への布石となっている。
永遠のシュール
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1994年―井上陽水46歳のアルバム
『恋の神楽坂』『目が覚めたら』収録
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アルバム『永遠のシュール』は夢破りの挑戦を主題にしたもので、たとえば収録曲のひとつ『恋の神楽坂』では、個人の夢が破れた直後に訪れる渾沌を歌っていたりする。
このまま帰るか
それとも消えるか
永い夢のさめた後の静けさは
青い闇へ続く恋のゆくさきは
深い夜の底に沈むせつなさは
青い闇へのびる恋の神楽の坂
(井上陽水『恋の神楽坂』より)
井上陽水は運命の試練の途上で何度か体験することになる渾沌を青い闇と呼んでいる。
その青い闇の期間を抜けると『少年時代』にも歌われている八月の夢花火があがるのだけれど、この『恋の神楽坂』はそこに至るまでの青い闇を歌ったものなのだ。
さらに『永遠のシュール』には、その青い闇を抜けたときの心象風景を描いた『目が覚めたら』も収録されている。
目が覚めたら恋は夢
気がついたら朝の夢
森の中から聞えてくるのは小鳥の歌
目が覚めたら恋は夢
瞬いたらただの夢
窓の外からのぞいているのはあのお日さま
青い夜が星を散りばめ
あなたとわたしは見つめ合いいだき合う
(井上陽水『目が覚めたら』より)
目が覚めたら恋は夢、気がついたら朝の夢…『長い話』にあった「長い話を朝まで君にしてあげる」の朝は、夢破りの挑戦に打ち勝った日の朝のことだ。
そのとき森の中から小鳥の歌が聞こえ自然の美しさが露呈する…この歌はそんな愛の衝動による美的活動がはじまり芸術家の誕生する日の朝を描いている。
そうしてあなたとわたしは見つめ合いいだき合う…ツインレイの二人が晴れてめぐり逢えるのも、その朝の出来事なのだ。
和尚による芸術家の誕生のお話をもう一度読むと意味がわかるとおもう。
芸術家の誕生
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もし愛を乗り越えたならば、そのときこそ、本物の美的活動が始まる。
そのとき、あなたの実存の中に詩が湧き上がる。
そのとき、あなたは生まれてはじめて、音楽を感ずる能力を持つようになる。
そのときはじめて、あたりを見まわすと自然の美しさが露呈する。
そうしたとき、あなたは宇宙のハーモニーを、星々の交響楽を耳にする。
そうして、あらゆるものがどこまでもどこまでもビューティフルになってゆく。
幾重も幾重もの美があらわになる。
あなたの目には浸透する力が備わっている。
どこを見ても、あなたは深く見る。
石ころの中にさえ、花が咲いているのが感ぜられる。
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和尚『TAO 永遠の大河4』-P.450-451「第9話 生は呼吸とともに始まる」
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フロイトは自己愛としてのエロスに昇華される以前の性の衝動をリビドーと名づけた。
芸術家はリビドーをエロスに昇華できたときに誕生するもので、『永遠のシュール』によると、おそらくその段階を40-46歳あたりで経験することがわかる。
咲く花の美しさを愛でるのは花自身ではなく、蜜を吸うのもまた花自身ではない。
井上陽水が愛の花を咲かせた1996年―その蜜を吸ったのは『アジアの純真』を歌ったPUFFYという二人組みの女の子だった。
白のパンダを どれでも全部並べて
ピュアなハートが
世界を飾り付けそうに 輝いている
愛する限り 瞬いている
いま アクセスラブ
(作詞:井上陽水 作曲:奥田民生『アジアの純真』より)
白のパンダをどれでも全部並べて…パンダの模様は黒と白、すなわち陰と陽で構成されている。
ハートの陰が転じて純陽となって発光するとき、人は愛にアクセスできる。
この『アジアの純真』を作詞したとき、井上陽水はすでに性の衝動のリビドーを自己愛のエロスに昇華することに成功し、それを全体愛のフィリアに変容しはじめていたのだろう。
『アジアの純真』は、最終的に49歳の厄年のとき奥田民生と合作したアルバム『ショッピング』でセルフカバーされた。
人は花として咲いたら散らなければならない ― その宿命を受けいれ、実をつけることができたとき、いつまでも散らない心の花が咲く。
一度咲かせた花が散らなければ人生の果実は収穫できないのだ。
井上陽水は、『ショッピング』をもって花の時代の終焉を飾り、1998年の50歳から実をつける時期に入ることになる。
ショッピング
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1997年―井上陽水49歳の奥田民生との合作
『アジアの純真』収録
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その1998年当時の私は23-25歳の厄年を迎えていた。
職業はシステムエンジニア…いちおう社会人である。
井上陽水に長いファンレターを書いて送った学生時代は過ぎ去り、大学時代の友人たちと思いがけなく疎遠になっていく運命に戸惑いを覚えはじめていた頃だ。
そんなときに惰性でなんとなく買ったのが50歳のときに発表されたアルバム『九段』だった。
九段
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1998年―井上陽水50歳のアルバム
『エンジの雨』収録
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学生時代に書いたファンレターの返事はこなかったのだけれど、このアルバムに添えられていた葉書で販促キャンペーンに応募したところフォークギターが送られてきた。
その胴体にはアルバムの収録曲『TEENAGER』の曲名が大きく印字されている。
TEENAGER号
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井上陽水のバトン
たしか十本ほど配られていたはずで、1998年当時、陽水チルドレンは少なくとも十人いた計算になる。
さて、いまでも生き残ってるのは何本だろう?
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けれども、そのTEENAGER号が弾かれることはなく、私の住んでいる狭い部屋の中ではその図体の大きさだけが鼻につくほど目立った。
おかげで創作に行き詰まると<<作家志望の私がこんなものを持っているからいけないのだ>>と真っ先に八つ当たりの対象にされた。
そうして何度も捨てられそうになったのだけれど、そのたびに「私が預かっておくから」という人物が現れて、どこかに保管されて眠っていたというしぶとい悪運を持っているギターだ。
おかげで状態はすこぶる良い。
積み荷もなく行く あの船は
海に沈む途中
港に住む人々に
深い夜を想わせて
間に合えば 夏の夜の最後に
遅れたら 昨日までの想い出に
(作詞:井上陽水 作曲:井上陽水・浦田恵司『積み荷のない船』より)
『TEENAGER』という曲は1998年に発売されたシングルで、そこに『積み荷のない船』という歌がカップリングされていた。
その頃の私は、俗世の積み荷をおろして誰も知らない海の底に出航しようとしている船みたいなもので、偶然にもその状況にピッタリの歌だった。
この歌をそういうときに聴くと、自分の宿命を告げられたような感覚にならざるをえない。
過ぎ行く日々 そのそれぞれを
なにか手紙にして
積み荷もなく行く あの船に
託す時は急がせて
帰るまで 好きな歌をきかせて
会えるまで 胸と胸が重なるまで
(作詞:井上陽水 作曲:井上陽水・浦田恵司『積み荷のない船』より)
そしてこの頃からの井上陽水の歌には、過ぎてきた日々の経験をさりげなく手紙にしたようなものが紛れ込んでくる。
たとえば『九段』に収録されている『エンジの雨』なんかは、40-42歳の大厄でツインレイとの守れそうにない約束を思い出すための助言になっていた。
帰りの道で知ったのは
本当の恋に会えたこと
瞬きの間に
あこがれたまま
想い果てなく 夢見てごらん
あの頃まで 眺めを映して
もっときれいに
(井上陽水『エンジの雨』より)
だから『九段』というアルバムを形而上の学校の最終課程に入った頃に聴くと、これから何をすべきかが見えてくる。
どうやら『九段』というアルバムタイトルには、あと一歩で免許皆伝の十段という意味が込められていたらしい。
おおよそ咲いた花が散ったあとに実をつけるのは、その中に未来の種を宿すためなのだろう。
1998年の50歳から実をつける時期に入った井上陽水は、ギターと歌を手紙がわりにして未来の種を宿そうとしていた。
51歳から54歳までは人生の果実が熟する最も輝かしい季節である。
井上陽水が人生の収穫期に入った51歳のとき、ベストアルバム『GOLDEN BEST』が発売された。
このアルバムは累計200万枚という大セールスを記録し、続いて2001年に発表された53歳の『UNITED COVER』というカバーアルバムは、80万枚を売り上げてカバーブームのさきがけとなった。
「新しく歌をつくるのが面倒だった」とはぐらかしながらの80万枚。
井上陽水を中年の星と呼ぶ人まで現れた。
さりげなく絶好調である。
こうした人生収穫期の果実は、全体愛のフィリアの目覚めた芸術家に与えられる恩寵なのだろう。
たとえば冒頭で紹介した『決められたリズム』などは、全体愛の視点に裏打ちされた重みのある作品で、そこには<全体>のつくりだす運命の流れに身をゆだねる美が描かれていた。
その美と恩寵を和尚はこんな風に語っている。
<全体>の目的地を自分の目的地にするのだ
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それがどこへ行くにしろ生の流れに自分をゆだねるがいい。
<全体>の目的地を自分の目的地にするのだ。
自分だけの目標など追わないこと。
あなたはただの部分になるだけでいい。
すると限りない美と恩寵が起こる。
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和尚『TAO 永遠の大河4』-P.374「第7話 役立たずでいなさい」
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こうした<全体>の目的地を自分の目的地にする美の横溢しているアルバムが、54歳でリリースされた『カシス』だった。
『決められたリズム』はそこに収録されている。
カシス
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2002年―井上陽水54歳のアルバム
『決められたリズム』』『結局、雨が降る』収録
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けれども熟した果実はいずれ土壌に落ちてみずから養分とならなければならない。
なぜなら次世代の種はそうやって受け継がれてゆくものだからだ。
やはり全体愛のフィリアが目覚めたときに人生の果実を収穫するからこそ、何の心のこりもなく次世代の土壌となることができるのかもしれない。
自己犠牲ともいえる無償の愛― アガペーは、そうやって覚醒してくる。
ベルの音が響きわたり ふたり駅にいる
僕の荷物 君にあげる 三時間だよ この旅は
甘い言葉 ささやくなら 電車の中でね
君のためにお茶を買うよ お茶でのどを湿らせて
京都まで 行くのさ
11:36発の LOVE TRAIN
(井上陽水『11:36 LOVE TRAIN』より)
この『11:36 LOVE TRAIN』は2006年に発売された『LOVE COMPLEX』というアルバムに収録されている。
井上陽水が58歳のときの作品だった。
そのとき私は31-33歳の大厄の最中で、普通の男の子に戻るのか、一般には理解されそうにもない仕事に運命をゆだねるのか、そんな岐路に立たされて頭を抱えていた。
そんな時期に重なる。
― 僕の荷物 君にあげる 三時間だよ この旅は ―
なんでも「陽水」という名前の部分を「アキミ」と読むと本名そのままなのだそうで、井上陽水とはその名のとおり、道(TAO)の導師になるべくして生まれてきたような人物なのだ。
したがってこの『11:36 LOVE TRAIN』も『アジアの純真』と同じく道(TAO)の概念が根底にある。
0時をはさんだ11時36分から2時36分までの三時間は子(ね)の刻またぎ―そこは陰と陽が逆転する象徴としての時刻になっている。
すなわち「君のハートの陰が転じて純陽になるとき、僕の荷物を君にあげよう」と歌っているのだ。
始まりでも終わるにしても熱海のあとでね
しゃべり過ぎる恋の言葉 嘘にならないほどにして
うなずくたび月は流れ 富士を前にして
つまり君は午前、午後もわからないまま行く先は
京都まで 行くのさ
11:36発の LOVE TRAIN
抱き合える喜びなら 人目を忍んで
熱い風に星は砕け 白く窓を曇らせて
いまに僕等だけになるよ 名古屋の前でね
望むものが希望なんて 三時間だよ この旅は
京都まで 行くのさ
11:36発の LOVE TRAIN
(井上陽水『11:36 LOVE TRAIN』より)
ここで歌われている僕と君の関係は、芸術家とその後継者の二つの運命が星影のように交錯するツインシャドウの関係と呼べるかもしれない。
この歌には、そのツインシャドウの二人が出会うまでの地図を示してあるから、後々参考にするといい。
とはいえ一見ふざけたような歌詞なのでちょっとヒントを残しておこう。
熱海、富士、名古屋という地名にはそれぞれ文字通りの意味が込められている。
また熱い風に星が砕けたとき白く曇る窓は『荘子』に書かれている虚室生白のことだ。
おそらく58歳になった時点で、後継者に天性の才能を引き継ぐ決意をすでに固めていたのだろう。
そこがアーティスト井上陽水の単なる音楽屋と違うところである。
熟した果実はついに土のうえに落ちた。
しかし果実が土壌に還って次世代の種が芽を出すまでにはまだ時間がかかる。
ツインシャドウの関係にある後継者が芽を出すまでの芸術家の課題は、ツインレイとの愛を卒業して魂の衝動―プシュケーを起こすことらしい。
あなたとお別れして
幸せになれるかしら
おそらくなれない
私はもういろんな夢を
あなたと共に見たから
Just a little love 想い出ばかり
子供になれない
瞳の魔力のよう
夢のままで
(井上陽水『覚めない夢』より)
この『覚めない夢』は62歳のアルバム『魔力』に収録されているもので、それはちょうど61歳の厄年を迎えた時節に発表されたアルバムだ。
厄年の構造
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図:布施仁悟(著作権フリー)
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61歳の厄年は男の厄年であり、同時に女の厄年でもあるとされる。
それは男と女の“二元対立の超越”が61歳の厄年の主題だからではないだろうか。
よろこびと至福の違い
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よろこびと至福の違いは何だろうか?
何かを楽しむとき、あなたのよろこびはそのものに依存している。
それは対象を持っている。
愛すべき美しい女性がいると、あなたはよろこびを感ずる。
しかし、その女性がいなくなってしまうと悲しみが降りてくる。
天気が良く、脈動し、生き生きとしていれば、あなたの足どりは踊っている。
ところが、天気がどんよりと曇っていると、よろこびもすべて消し飛んでしまう。
よろこびの人は、悲しみも感ずる。
そこには浮き沈みがある。
彼は絶頂に登りつめては谷底へ帰って来る。
そこには夜と昼とがある。
二元対立が残る。
しかし、もし<生>の起こる瞬間に目を見張り続けていられたならば、醒めて、気を配り、意識的でいられたならば、人は<生>をも超越する。
そうしたところに至福があるのだ。
至福とはなんら目に見える原因のない、目に見えない原因もないよろこびを言う。
至福とはいわれのないよろこびなのだ。
あなたは幸せだ。何がどうであれ関係ない。
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和尚『TAO 永遠の大河4』-P.262「第5話 病める心」
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愛はよろこびの対象を必要とする。
それは二元対立が前提なのだ。
ツインレイとの愛を卒業して魂の衝動―プシュケーを起こすことは、対象を必要とするよろこびを超越して、至福へと至ることなのである。
魔力
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2010年―井上陽水62歳のアルバム
『覚めない夢』収録
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さて、やがてプシュケーの衝動が自然に湧きあがってくる65-66歳の時節を迎えたとき、井上陽水とツインシャドウの関係にある後継者との運命が交錯するときがやってきた。
そのときテレビ番組のエンディングテーマとして創られたのが『瞬き』である。
未来のあなたに 幸せを贈る
記憶と想い出を 花束に添えて
瞬く瞳に 魅せられてゆれて
恋するこの胸は 求め合うままに
愛しているなら ささやいてみせて
あまい恋の言葉を あふれるほどに
逢わずにいるなら 瞬いてみせて
青い夜の空から 星降るように
(井上陽水『瞬き』より)
この頃には私もちょうど40-42歳の大厄を迎えて、ようやく井上陽水の歌詞の意味が分かりはじめていた。
逢わずにいるなら瞬いてみせて…このフレーズを聴いたとき、ツインシャドウの関係にある後継者へのメッセージではないかと思ったのだけれど、単なる恋の歌のようにも聴こえてくる。
本人に確かめてみないと真相がわからないようになっていた。
そこで2017年の『Good Luck!』ツアーで井上陽水が札幌公演にやってくるとき、その真相を確かめに行くことにした。
もしも『瞬き』がツインシャドウの関係にある後継者に向けたメッセージなら、その意味を伝えようとするはずだからだ。
かくして2017年5月27日―札幌ニトリ文化ホールにやってきたステージ上の井上陽水は、『瞬き』についてこう語った。
「『若い人の未来』というのがずっと頭にあって、それが歌になった。そんな歌です」
UNITED COVER 2
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2015年―井上陽水67歳のカバーアルバム
『瞬き』『あの素晴らしい愛をもう一度』『I Will』『夢で逢いましょう』収録
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『瞬き』は2015年に発表された『UNITED COVER 2』というカバーアルバムに収録されたのだけれど、全十三曲のうち『瞬き』からはじまる四曲は、ツインシャドウの関係にある後継者に向けたメドレーになっていて、売る気なんかまったく無いようにも感じさせる。
「どうだ売れないだろう!」…そんな空威張りまで聞こえてきそうだ。
命かけてと誓った日から
素敵な思い出残してきたのに
あの時 同じ花を見て
美しいと言った二人の
心と心が今はもう通わない
あの素晴らしい愛をもう一度
(作詞:北山修 作曲:加藤和彦『あの素晴らしい愛をもう一度』より)
『瞬き』からはじまるメドレーの二曲目はフォークソングの代名詞『あの素晴らしい愛をもう一度』だった。
あの時同じ花を見て「美しい」と言った二人の心と心が今はもう通わない…誰かのソウルモデルになる芸術家は後継者に一度忘れ去られて再発見される運命にある。
井上陽水はその法則をちゃんと知っていたのだ。
続く後継者へのメドレー三曲目はビートルズの『I Will』。
For if I ever saw you
I didn't catch your name
But it never really mattered
I will always feel the same
前に君を見かけたとき
僕は君の名前を聞き逃しちゃったんだ
でもそんなことはたいしたことじゃない
僕の思いはいつだって変わらないから
And when at last I find you
Your song will fill the air
Sing it loud so I can hear you
Make it easy to be near you
For the things you do endear you to me
Oh,you know I will,I will
そしてついに君をみつけたとき
君の歌があたり一面を満たすんだ
僕に聞こえるように大きな声で歌ってよ
気楽に君のそばに行けるようにさ
君がしてくれることなら何だって愛おしいんだ
ああ 君に誓うよ
僕の思いはいつだって変わらないと
(Lennon,McCartney『I Will』より)
この『UNITED COVER 2』のジャケットには「表紙でソファに寝そべっている陽水が裏表紙をめくるとギターを残していなくなる」という遊びが施されている。
それをみたうえで『I Will』を聴くと、Sing it loud so I can hear you(僕に聞こえるように大きな声で歌ってよ)という歌詞に託された意味がわかってくるのだ。
ここでは1998年の『九段』のときに配られたギターの意味が明かされているのである。
そしてメドレーの最後を飾るのは、いかにも井上陽水らしい『夢で逢いましょう』だった。
夢であいましょう
夢であいましょう
夜があなたを抱きしめ
夜があなたに囁く
うれしげに 悲しげに
楽しげに 淋しげに
夢で 夢で 君も 僕も
夢であいましよう
(作詞:永六輔 作曲:中村八大『夢で逢いましょう』より)
これは「いつか君の個人の夢が破れて君と僕の夢が重なるときに逢おう」というメッセージになっている。
こうして後継者が芽を出すのを見届けてから芸術家は土に還るのだろう。
古代ギリシアの愛の概念には、エロス・フィリア・アガペーのほかにもう一つ、ストルゲーという家族愛がある。
どうやらこのストルゲーというのは、ツインレイの相手と再会する頃から問題になってくるものらしい。
42歳8月の高校の同窓会のときに、美術室の彼女が長女の名前の話を突然はじめた。
偶然にも私のソウルモデルの村上春樹と井上陽水から一字ずつとった名前だったのだけれど、どうして長女の名前の話を唐突にはじめたのか疑問に思っていたのだ。
娘が二人いると言っていたのに、長女の名前の話だけを突然はじめたからである。
その疑問が解けたのは村上春樹の『騎士団長殺し』を読んでいたときだった。
迷う余地のない確かな名前
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そしてその子供が迷う余地のない確かな名前を持ってこの世界に生まれてきたことも、私にとっては喜ばしいことだった。
名前というのはなんといっても大事なものなのだから。
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村上春樹『騎士団長殺し 第ニ部』<64章 恩寵のひとつのかたちとして>
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これを読んだとき、「陽水」のように迷う余地のない確かな名前を持って生まれてくる子供がいるのかと思った。
美術室の彼女はそれを教えてくれようとしていたのかもしれない。
また『騎士団長殺し』の主人公の男は、妻と不倫関係にある男との間にできたかもしれない娘を、家族として受けいれなければならなくなる。
これは妻の妊娠期間中に話し合いをしたときの主人公の男の言葉だ。
子供の潜在的な父親
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「こんなことを言うとあるいは頭がおかしくなったと思われるかもしれないけど、ひょっとしたらこのぼくが、君の産もうとしてる子供の潜在的な父親であるかもしれない。
そういう気がするんだ。
ぼくの思いが遠く離れたところから君を妊娠させたのかもしれない。
ひとつの観念として、とくべつの通路をつたって」
「ひとつの観念として?」
「つまりひとつの仮説として」
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村上春樹『騎士団長殺し 第ニ部』<63章 でもそれはあなたが考えているようなことじゃない>
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ストルゲーという家族愛を目覚めさせるためは、たとえ血がつながっていなくても、産まれてきた子供の潜在的な父親であり得るという考え方ができなければならないらしい。
村上春樹はこういう考え方ができるようになったときに起こる心境の変化を、主人公の男の妻に、こんな風に語らせている。
ほとんどすべては勝手に決められている
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「最近になって思うようになったの」とユズは言った。
「私が生きているのはもちろん私の人生であるわけだけど、でもそこで起こることのほとんどすべては、私とは関係のない場所で勝手に決められているのかもしれないって。
つまり、私はこうして自由意志みたいなものを持って生きているようだけれど、結局のところ私自身は大事なことは何ひとつ選んでいないのかもしれない。
そして私が妊娠してしまったのも、そういうひとつの顕(あらわ)れじゃないかって考えたの」
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村上春樹『騎士団長殺し 第ニ部』<63章 でもそれはあなたが考えているようなことじゃない>
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井上陽水にまつわるシンクロニシティに気づいたおかげで、いまでは私も「ほとんどすべては勝手に決められている」という考え方をするようになってしまった。
もしかするとツインシャドウとのシンクロニシティを見つけることは、ストルゲーを目覚めさせるうえでも重要な運命の課題なのかもしれない。
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